
まずは目の前のことを、
一生懸命やってみよう。
ラジオの深夜番組に熱中、
アナウンサーを志す
取材当日、少し早めに到着したエフエム福岡本社ビルの廊下で、いきなり西川諭さん本人に鉢合わせしました。一瞬の驚きの表情の後、すぐに人懐こい笑顔を浮かべ、「今日はよろしくお願いします」と物腰柔らかく控室に案内してくれます。取材では時折、笑いを交えながら、一つ一つの質問に丁寧に答えてくれました。和やかな雰囲気の中で、時を忘れて話に引き込まれていきます。
西川さんは1997年に本学商学部商学科を卒業後、全国で4番目に開局した民放FM局のエフエム福岡に入社。アナウンサーとして歩み始めました。ニュースやCMナレーションを担当しながら経験を積むと、2001年に夕方の生放送番組『BOOM UP!Fukuoka』のメインパーソナリティに抜てきされ、人気ディスクジョッキー(DJ)の仲間入りを果たします。2006年4月からは“スタモニ”の愛称で知られた朝6時からの『STAND UP! MORNING』を7年間担当し、“朝の顔”として親しまれてきました。
その後、営業部への異動を経て今年4月、3年ぶりに制作の現場に戻ってきました。
北海道で過ごした小学生の頃から、人前で話をすることや朗読が好きだったという西川さん。ただ、タレントや芸人になるイメージは浮かばなかったと言います。転機は6年生の運動会でした。リレーの様子をマイクで“実況”したところ、顔見知りのおばさんから「さとり君、すごかったね。競馬を見ているようだったよ」と言われたのです。小学生のリレーも、喋り一つで競馬の実況のように聞こえる…。言葉の持つ不思議な力を感じ、アナウンサーという職業を意識するようになりました。
中学生になり、福岡で過ごすようになるとラジオの深夜番組に熱中します。お気に入り番組の一つKBCラジオ『PAO~N(パオ~ン)』では、同局アナウンサーでメインパーソナリティを務める沢田幸二さんの話に魅了されました。「タレントでなくても、こんなに面白いトークができるんだ」。アナウンサーとして、リスナーと楽しい時間を過ごす自分の姿を想像し、夢を膨らませました。
「アナ研」の存在を知り、
福岡大学に進学
そんな西川さんが、社会へのステップとして選んだのが福岡大学でした。
「まずは“福岡大学”という名前に引かれました。福岡にある大学、ということが一発で分かりますから、社会に出て“福岡大学出身です”と言えば“福岡の方なんですね”と話のきっかけにもなりやすい」
もう一つ、将来を見据えて具体的な理由もありました。
「高校の先輩が、今は無くなってしまいましたが、福大のアナウンスメント研究愛好会(アナ研)に所属していて、“面白いよ”と言っていたんです。その頃はもうアナウンサーになることばかりを考えていましたから、自分も福大でアナ研に入ろう、と」
入学試験では経済学部と商学部に合格しましたが、福岡大学の前身が商科大学であることを知ると、先々、「福大の“源流”である商学部出身です」と言えるという理由で、商学部を選択。すでにこの頃から、話題づくりに勤しむラジオパーソナリティの一面が垣間見えます。
当時のアナ研は部員100人弱の大所帯で、テレビ局などにもアナウンサーを輩出していました。KBCアナウンサーの近藤鉄太郎さん(1995年法学部卒業)もその一人で、2つ上の先輩に当たります。
部員全員がアナウンサー志望ではありませんでしたが、“喋り”について関心を持つ人たちの集まりでした。アナウンサーを志していた西川さんは「発声」や「フリートーク」など日々の練習に熱が入ります。やがてサークル屈指の“アナウンサー”となった西川さんは、七隈祭などで各サークルからイベントの司会を毎年のように頼まれることになります。そこで「面白かった」と言われるたび、自信が増していきました。



サークル合宿でアナウンスメント研究愛好会の仲間たちと
(前列右から3人目が西川さん)

1年次生の時の七隈祭で、イベントの司会を務める西川さん

入社5年目、「BOOM UP! Fukuoka」のメインパーソナリティを務めていた頃
エフエム福岡の本社ビルを背景に。カメラが向くとすぐ笑顔になる
家族に接するように、
リスナーに接する。
それが僕の思い描くアナウンサーの姿。
アナウンサーを目指して
走り続けた大学時代
アルバイト先も放送局でした。地元テレビ局の報道部で深夜のサポート業務を担当しました。事件が発生すると記者に一報を入れ、カメラマンと現場へ急行。局に戻ってからは映像にテロップを入力し、番組が始まるとアシスタントディレクターの役割を担うなど、リアルな報道現場を経験しました。西川さんがアナウンサー志望であることを知った局アナの一人は、丁寧にアドバイスをしてくれた上、自身の就職活動や受けた入社試験の内容などを細かに記したノートをプレゼントしてくれました。
商学部に入ったからには経営のことを学ぼうと、ゼミでは市村昭三先生の下で経営学を学びました。簿記というものに初めて触れた中村信博先生の授業も新鮮だったと言います。在学中に資格は取りませんでしたが、社会人になって「大学で学んだ証しを残したい」と一念発起し、簿記3級に合格。「大学で基礎を学んでいたおかげで、合格できました」と振り返ります。
アナウンサーという目標に向かって、突き進むように過ごした学生時代。アナウンサー以外の仕事に就くことは頭になく、就職試験はテレビ局、ラジオ局だけを受けました。役員面接や最終面接まで進みながら不合格という状況が続きましたが、4年次の7月になってエフエム福岡から内定を得ました。
理想のアナウンサー像を
決定づけた
リスナーのメッセージ
入社後は、アナウンサーとしての仕事の傍ら、番組の台本を書き、DJに指示を出すディレクターの仕事も手掛けました。SMAPの『夜空ノムコウ』の作曲などで知られるシンガーソングライター・川村結花さんの番組を担当した時のことは、今でも印象に残っています。「川村さんからは、『ラジオを聴いている人は大抵一人で居ます。だからこそ“皆さん”ではなく“あなた”と呼び掛けるべきなのでは』と教わりました。自分に語り掛けてくれていると感じるから聴いてくれる。あらゆる想像を膨らませて、どう共感してもらえるか考える。そうか、これがラジオなんだ、と膝を打ちました」。
アナウンサーやDJとしての仕事に充実感を覚える一方、やがて「自分が楽しむだけではなく、皆のためになることをしよう」と思うようになった西川さん。そのために何をすべきか、思いを巡らせるようになりました。
長く番組を続けるうちに多くのメッセージが寄せられるようになり、イベントでリスナーと交流する機会も増えていきます。そんなある日、西川さんもよく知るリスナーの母親から番組にメールが届きました。そこには“いつも一緒に番組を聴いていた娘が交通事故で亡くなった”と書かれていました。
「番組の中では紹介しませんでしたがショックで…。イベントを通じて親しくさせてもらっていたとはいえ、家族や親戚でもない自分にメッセージを送ってくれたことに、何とも言えない気持ちになりました。その時、思ったんです。リスナーの皆さんとは本当の家族にはなれないけれど、それに近い気持ちを持って番組に臨まないといけない、と」
リスナーの生活に寄り添い、うれしい報告があれば心から喜び、時には前向きに助言することもあります。彼らのお兄さんとして、時にはお父さんとして、何かあった時に話し掛けてもらえる存在になりたい。
それが西川さんの出した一つの答えでした。

共同通信から配信されるニュース原稿は、ストップウオッチを手に繰り返し読み、時間内に収まるように原稿量を調整していく

愛用しているアクセント辞典とストップウオッチ。入社以来、秒針が付いたアナログ式のストップウオッチを使い続ける
プロデューサーも兼務、
新たな制作のステージへ
インタビューの最後に、後輩へのメッセージをお願いすると、少し考えて口を開きました。
「今経験していることは全て社会で役に立つと信じて、僕は大学時代を過ごしてきました。実際、今の仕事に生きていることは多いですし、例えアナウンサーになっていなくても、役に立つものは他にたくさんあったと思います。だから“あまり先のことは考え過ぎずに、目の前のことを一生懸命やろうよ”と言いたいですね。何のためにやっているのか分からなくても、今はいいんじゃないでしょうか」
西川さんは今年4月の制作現場復帰後、番組全体を管理するプロデューサーとしての仕事も加わりました。スマホのアプリで全国のラジオ番組が聴ける「ラジコ」の登場で、一地方局から全国に情報発信ができるなど、ラジオを取り巻く環境も変化を続けています。
「プロデューサーとして多くの人に聴いてもらえる番組を作りたい。でも、アナウンサーとしてつまらなくなったね…と思われるのは嫌なんですよ」
アナウンサーに憧れ、そこに向かってただ走り続け、理想像を求めてきた半生。新たな職務となったプロデューサーとして、そしてアナウンサーとして、西川さんの挑戦はこれからも続きます。

エフエム福岡6階には5つのスタジオがある。写真はニュースなどを読む生放送用のニューススタジオ

2018年4月の福岡大学入学式で司会を務める西川さん