福岡大学学園通信 No60
15/44

おう か遊んでいたと言います。一方で、中学・高校では野球やサッカーにも熱中する、ごく普通の少年でした。 それでも「家業を継ぐことは、生まれ持った定め」として、大学を卒業したら陶芸の修業をするという将来に抵抗はなかったと言います。美術大学への進学も考えましたが、「椅子に何時間も座ってデッサンするのは性に合わない。それよりも規模の大きな大学に行き、多くの人に出会って視野を広げたい」と、地元の福岡大学へ進学しました。 大学の4年間は、本当に楽しいものでした。友人たちとスポーツに興じ、ビル清掃や鮮魚市場などでのアルバイトにも精を出すなど、好奇心の赴くままに青春を謳歌しました。 やがて友人たちが就職活動に入ると、福島さんは思い立って、全国の窯巡りの旅に出ました。「良い窯があれば修業させてもらおう」と、祖父や父のつては頼らずに、高校時代の友人の下宿先を転々としながら、広島や岡山、栃木など9都府県に足を伸ばしました。 約3週間かけて訪ね歩いた窯元の数が二桁に近づく頃、福島さんの胸には次第にある思いが募っていきます。 「小石原の技術の方が、断然高いんじゃないか」 幼い頃から20年間、見続けてきたその目には、祖父や父たちの窯のレベルの高さが一目瞭然でした。得心した福島さんは卒業すると小石原村に戻り、本格的な修業に入ります。 時代は、生活で使う器がもてはやされた「民陶ブーム」の最盛期。幼い頃には10軒ほどしかなかった窯元も40軒に達しようとしていました。小石原焼の特徴である「飛鉋」さえ入れておけば売れると、粗雑な器も多く出回り、専門誌で小石原焼が良く書かれることはありませんでした。「このままでは小石原焼がダメになる」。16代目の心に火がつきました。 水に強く丈夫な生活雑器を主とする小石原焼の制作の要は、ろくろ技術。体で覚える仕事です。「中学の頃からろくろを回している人もいる中で、大学を出た自分はかなわない。ろくろ技術を極めつつも、釉薬で勝負しよう」。 そう決心しました。先輩の足跡今も朝の8時30分から夜は11時頃まで作業場に立つ福島さん。「分業制をとっている窯元がオーケストラの指揮者ならば、土作りから焼き上げまで全て一人で行う私は、シンガーソングライターみたいなものでしょうか」大学時代の窯巡りの旅で小石原の技術の高さを認識現在 小石原焼窯元「ちがいわ窯」16代目1959福岡県生まれ幼い頃から小石原焼が身近にあった。1歳になる前、火鉢に寄り添う。3~4歳の頃、祖父母と庭で。10~11歳の頃(小学校5年生)大学4年次生の時、全国の窯を巡る3週間の旅に出て、広島、岡山、大阪、奈良、京都、愛知、東京、栃木、茨城の窯元を訪れた。写真は岡山県倉敷市での一枚。1982福岡大学卒業大学卒業とともに実家である小石原焼窯元「ちがいわ窯」に入る。14FUKUOKA UNIVERSITY MAGAZINE January 2018

元のページ  ../index.html#15

このブックを見る