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〔研究者コラム〕福岡大空襲から72年、戦時を生きた福岡大学を紹介―「制帽と福岡大学」―

2017.06.16

1945年6月19日、1,000人以上の死者・行方不明者が出た福岡大空襲。

福岡大学の前身校である九州経済専門学校も戦火に遭い、約8,000冊の本が図書館の建物もろとも焼き払われました。当時、ほぼ全員に当たる600人の学生たちは演劇や演奏会、バザーを行ったり、家庭教師や土木作業に従事したりして資金集めに奔走し、学校を復興しました。

今回は、『七隈の杜』第6号(2009年)に勝山吉章人文学部教授が著した「制帽と福岡大学」を一部加筆修正してご紹介します。

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福岡高等商業学校制帽
(1945年卒業の犬塚武道氏寄贈)

今日、キャンパス内で制帽をかぶる学生を見ることはまずない。だが、福岡大学の前身校である福岡高等商業学校(福高商)の生徒たちは、写真の制帽に憧れ、誇りとし、外出の際には必ず制帽を身に着けた。戦時統制下では、制帽ではなく戦闘帽をかぶるように強制されても、彼らは脱がなかった。一体、なぜ、彼らはこの制帽を大切にしたのだろうか。

1934年に創立された旧制の専門学校である福高商にストレートに入学できた世代は1916(大正5)年生まれ。当時6年間だった義務教育を終えて、5年制の中等教育機関(中学校、実業学校、高等女学校)に進学できたのは、同世代の8・7%だった。その上の高等教育機関である3年制の高等学校・専門学校に進学できたのは同世代の2・1%であり、さらにその上の大学まで進学したのは1・4%に過ぎなかった。

つまり、高商に進学することは「すごいこと」であり、高商の制帽はエリートの象徴だったわけだ。高商を卒業することが、どれくらい「すごいこと」かは、財閥系企業の初任給を見れば分かる。例えば大正時代。三菱では神戸高商卒の初任給が36円だったのに対して慶応卒は28円。三井も神戸高商は35円だが、慶応は30円。早稲田や慶応といった「大学」よりも、格下の「高商」の方が評価が高かったのである。もっとも、帝国大学法科卒は40円だったが・・・。

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竣工時の本館(1935年)

昭和に入る頃福岡では、高商設立運動が盛り上がり、福岡市議会では1924年12月に「市立高等商業学校設立の建議書」が可決されるが、当時は金融恐慌の最中でお金はない。そこで、いろんな人たちが共同発起人となって、後の市立移管を前提に資金等を工面して1934年4月の設置認可に至った。当時の福岡県内の高等教育機関は、大学では九州帝国大学、専門学校レベルでは、福岡高等学校(九大六本松)、明治専門学校(九州工業大)、県立女子専門学校(福岡女子大)、西南学院高等部、九州歯科医学専門学校(九州歯科大)、九州医学専門学校(久留米大医)だった。

福岡の人たちの期待を背負って発足した福高商。150人の募集に対して、初年度は1,220人が受験。戦後新制高校となる修猷館や福岡、明善などの出身者が多数を占めた。今日では、新設校は十分な施設設備とスタッフを準備しなくてはならないが、当時は、後で充実させればよいという、いい加減さが許されていた。従って、図書館も何もないところから福高商はスタートした。高商生たちは授業のかたわら、テニスコート造りなどに走り回った。もっこなどを担ぎながらの肉体労働であったが、そんな時でも制帽は脱がなかった。

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勤労奉仕(1940年)

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航空班(1941年)

発足したばかりの福高商の平和な時代は、長続きしなかった。1937年7月、日中戦争が勃発し、10月には在学中に召集された3年生が戦死した。やがて日中戦争は太平洋戦争へと拡大し、学園は戦時色一色に塗りつぶされていく。修学年限の短縮、三菱長崎造船所など軍需工場への勤労動員、やがて学徒出陣により戦場へ。

1944年4月、総力戦体制下で不要不急とされた文系学生・生徒の削減が強要される中、福高商は九州専門学校(1940年創設)と統合して九州経済専門学校となった。

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帝国海軍士官制帽
(1943年卒業の江頭俊夫氏寄贈)

写真は、海軍に入隊した高商生がかぶった士官帽である。勤労動員でも脱がなかった高商の制帽から、彼らは陸海軍の初級幹部の制帽をかぶった。そして彼らを待っていたのは戦場だった。大陸や南方や太平洋上で彼らは還らぬ人となった。福高商の同窓会が調べたところによると、141人が戦没している。

そんな一人に、1945年4月、特攻隊員として知覧から飛び立った高商生がいる。彼は次のような遺書を残して戦死した。

「恋・・・何という魅力ある言葉だ。私はこの言葉を口にする時、何かしら心のときめきを感ずる。しかし、悲しいかな、私は恋を知らない。恋とはヴェールに覆われた遠い彼方にあるものだ。私はどれほど恋に憧れたことか。しかし、遂に私はその実体を知らないまま終わってしまった・・・私の青春は一体何であったのか、私の青春は遂に何物も残さないで終わった。否中断された。こんな遺書を残して、私は新しい世界に入って行こうとする。再び七隈の学園に戻って、書物をひもとくことは永久にないだろう・・・」

敵艦に突入する寸前、彼の目の前に浮かんだのは、七隈の学園に集う高商生の制帽の群れだったかも知れない。

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新校舎(1950年頃)

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2代図書館(1950年頃)

敗戦から翌年の1946年4月、九州経済専門学校は福岡経済専門学校(福経専)へと改称した。47年には学校教育法が施行され、六・三・三・四制が発足した。旧制の専門学校は廃校か、新制大学に昇格するかを問われた。

福経専では、にわかに、教職員・経専生を巻き込んだ大学昇格運動が起こった。大学昇格にとって致命的だったのは、1945年6月の空襲で図書館が全焼していたことだった。経専生たちは緊急学生大会を開いて、図書館の再建運動に立ち上がった。

彼らは、学業そっちのけで露天商や行商などを行い、文化部は演劇や音楽の巡回講演などをして書籍代を稼いだ。制帽をかぶり、必死に大学昇格運動をする経専生に、福岡の人は温かかった。

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試験風景(1950年頃)

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図書館閲覧室(1950年頃)

彼らの運動の成果によって図書館は復旧されたが、福経専単独による大学昇格は困難だった。そこで九州医専などとの合併・昇格が模索されるなかで、戦後、語学教育のニーズの高まりによって設置された福岡外事専門学校との統合・昇格が図られた。その結果、1949年4月、福岡商科大学が誕生した。

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福岡大学制帽(1960年卒業の藤田稔氏寄贈)

福岡商科大学は、1950年に短期大学部を、53年に第二部を設置し、56年には総合大学「福岡大学」になった。発足当初の福岡大学の学生定員は、商学部第一部が300人、第二部が150人、法経学部法学科が80人、経済学科が80人だった。

写真は、大学生がまだ特権階層とみられていたころの福岡大学の制帽である。1960年ごろ、短大を含めた大学進学率は約10%だった。それから大学は進学率の急上昇とともに大衆化に向かい、制帽は何ら学生を惹きつけるものではなくなっていった。

七隈の学園で学ぶことを誇りとし、そして戦没していった先輩たちがいたことをどう語るか。「福岡商科大学」の印が押された黴の生えた本を汚いという福大生に、行商までして本を買ってくれた先輩たちへの感謝の気持ちをどう目覚めさせるか。あの制帽の思いを感じ取ってもらいたい。

<参考文献> 
『学制百年史』文部省
『福岡大学五十年史』福岡大学
『松陵の日々』福岡大学有信会

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